早稲田二十日会

概 要

創  立:大正14年9月14日
構成会員:早稲田大学卒業の企業経営者・役員、そのOBほか
(2023年3月31日現在会員数:318名=うち終身会員22名)
活動内容:毎月1回20日正午より日本工業倶楽部会館にて例会(会食、その後1時間の講演会)を開催。
ただし20日が土・日曜日及び祭日に該当する場合は適宜変更して開催。
なお、1月は新年会、8月は暑中休会。
その他会員有志による懇親ゴルフ会として年2回競技会を実施。
会  費:年会費 20,000円/終身会費 1,000,000円/例会会費 6,000円(新年会:10,000円)

早稲田二十日会 会則(2023.1.27制定)

  • 第一章(総則)
  • 第1条(名称)
  • 本会は早稲田二十日会と称する。
  • 第2条(所在地)
  • 本会は事務局を東京都千代田区内幸町2-2-1日本プレスセンター8階に置く。
  • 第3条(目的)
  • 本会は以下の目的を達成するために必要な活動に励む。
  •  1.早稲田大学卒業の会社経営者、役員などの親睦を図る。
  •  2.早稲田大学と本会の密接な協力関係を推進して、大学の学生・教員の社会的な評価を高めることを支援する。
  • 第二章(会員)
  • 第4条(正会員と終身会員)
  • 本会の会員は正会員と終身会員とする。
  • 第5条(入会申込資格)
  •  1.正会員は早稲田大学に在籍したことがある者。会社経営者、役員の職にある者、もしくはあった者。それと同等の見識を持つ者。
  •  2.終身会員は上記の資格に加え所定の会費を一括納入した者。理事会メンバーの推薦を要する。
  • 第6条(入会)
  • 所定の書面により会長・事務局宛てに入会を申し込み、承諾された者が入会できる。
  • 第7条(年会費)
  • 会員は別途定める年会費を年に一度一括で納める。ただし終身会員の年会費支払いは不要とする。
  • 第8条(例会会費)
  • 例会に参加する会員はその都度、例会会費を納める。
  • 第9条(退会)
  • 以下の場合は退会とし、会員資格を失う。
  •  1.会員ないし代理人が退会を申し出た場合。
  •  2.会員が死亡した時。
  •  3.会費を1年間支払わず、督促に応じない場合。
  •  4.本会の会則に違反したり、名誉を汚す行為のあった場合。
  • 第三章(役員)
  • 第10条(名誉会長)
  • 早稲田大学総長を名誉会長とし、早稲田大学との連携の象徴とする。
  • 第11条(会長)
  • 当会を代表し、運営の責任を担う会長1名を置く。
  • 第12条(副会長)
  • 会長を補佐する副会長若干名を定める。
  • 第13条(幹事)
  • 当会の運営を執行する幹事若干名を会員から選任する。
  • 第14条(理事)
  • 終身会員が理事となり、幹事会による当会の運営に関して賛助し支援・提言する。
  • 理事会で代表理事1名、副代表理事1名を選任する。
  • 代表理事は幹事会と理事会の連携を図り会長を補佐する。
  • 第15条(会計監事)
  • 当会の会計状況を監査し総会で監査結果を報告する会計監事1名を会員から選任する。
  • 第16条(選出)
  • 会長、副会長、幹事、会計監事は前任の幹事会が推薦し総会の承認を得る。
  • 第17条(任期)
  • 上記の役員の任期は原則2年とし、3期まで再任を妨げない。名誉会長、理事には適用しない。
  • 第18条(年齢制限)
  • 役員の年齢は75歳未満とする。名誉会長、理事には適用しない。
  • 第四章(会議)
  • 第19条(幹事会)
  • 幹事会は会長、副会長、幹事と事務局長(オブザーバー)で構成する。
  • 原則月1回開催し、主な業務は以下の通り。議案は過半数の賛成で承認する。
  •  1.月間収支・財務状況の確認と承認
  •  2.講演予定の確認と承認
  •  3.入会審査と会員動向の確認
  •  4.その他当会の運営に関する重要事項の検討と決定。
  • 第20条(理事会)
  •  1.終身会員を構成員として原則2カ月に1回開催する。
  •  2.当会の運営に資する支援・協力策を協議し、幹事会へのアドバイスを実施する。
  • 第21条(例会)
  • 原則月1回、20日前後に開催し、主な目的は以下の通り。
  •  1.講演会と質疑
  •  2.昼の会食
  •  3.会員相互の懇親
  •  4.事務連絡
  • 第22条(総会)
  • 原則年1回1月に開催、役員の選任その他の当会の重要事項、会計・財務状況、監査結果などを報告、過半数の賛成で承認を得る。
  • 第五章(会計)
  • 第23条(会計年度)
  • 本会の会計年度は毎年1月1日より12月31日までとする。
  • 第24条(経費)
  • 本会の経費は年会費、例会会費、終身会員会費などの収入で賄う。
  • 第25条(会計監査)
  • 本会の決算は必ず会計監事の監査を受けなくてはならない。
  • 第六章(補則)
  • 第26条(会則の施行)
  •  1.本会の会則は幹事会が総会に報告し、承認を得て2023年1月27日から施行する。
  •  2.会則の変更も総会の承認を得る。
  • 第27条(その他の活動)
  •  会員相互の親睦を図るため同好会員の運営により以下の活動をする。
  •  1.ゴルフ会
  •  2.ラグビー会
  •  3.その他(会員の要望などを受けて幹事会が認めるもの)
  • 第28条(事務局)
  •  1.本会の事務処理のため事務局を設置し、事務局長を任命する。
  •  2.事務局長は会長が任免する。
  •  3.事務局は早稲田大学総長室と密接に連携して協力関係を推進する。

二十日会の生立ちと伝統

二十日会 第3代会長 佐々木 省三

二十日会が大正14年9月14日創立されていることは記録により明らかだが、この会には会則というものがない。伝えきくところによると、母校早稲田大学は古くから「私学の雄」として認められてきたが、ライバル校慶応に比べ、卒業生の実業界における活躍では、明らかに負けていることは事実である。ところが大学で商科を設置し、優秀な卒業生を輩出したことでは決して他に引けをとってはいなかった。

そこで商科初期の卒業生であり、早くから実業界で大活躍されていた日本化薬の原安三郎氏と日本工業倶楽部常任理事の中村元督氏らが相寄り話し合った結果、早稲田の卒業生で実業界に籍をおく者たちに呼びかけ「二十日会」をつくり、毎月二十日に日本工業倶楽部で会合を開き、勉強会を開くとともに大いに親睦を旨とすることにしたようである。勿論冷房設備のない当時のことだから、八月は休会とし、年2回歌舞伎鑑賞会と一泊の温泉旅行を春秋に分けて行い、また正月は宴会とし、それに余興として一龍斎貞丈(現在は二代目)の講談をきき、その年の運試しに福引をして親交を深めて互いに楽しみ合ったそうである。何せ大正14年といえば一流の集会のできるところとしては、帝国ホテル、上野の精養軒、それに日本工業倶楽部ぐらいしかない時代だから、こうした催しは確かに切磋琢磨するには最高の場所だったと思う。戦後経済同友会ができ、若き経営者たちが、個人単位で日本工業倶楽部を根城としたのも同じ理由だったと思う。

会員を集めるにはお互いに氏名推薦制度をとったようである。その事務局というか裏方の世話は全部中村氏がやってくれたという。将来性のある後輩に目星をつけて説得し勧誘はするが、相当の有名人でも選考は厳重で、原会長の指名した数名の推薦者が合議制で決めていたようである。現在の名簿に載っていない過去の人を、順不同で数名あげれば、河野謙三氏も政界に入る前に会員となっているし、大東京火災を創立された反町茂作氏、西武鉄道の社長で堤康次郎氏の女婿の小島正治郎氏とか、ソニーの井深大氏も若い頃に入会されたようだし、フジ・サンケイグループの創設者鹿内信隆氏、月島機械社長の黒板駿策氏等財界の大物はいくらでもいらっしゃる。わたくしも二三の先輩達から声をかけられ、昭和42年2月20日、55才で大東京火災専務のとき入会を許されたが、わたくしが早稲田大学の理事に就任したのは、翌43年6月であった。だから入会しないかと声をかけられたときは、本当に光栄に感じたものである。

さて「原会長」と書いたが、いつの頃からか会長は原さん、そして副会長は駿河銀行の頭取から日銀の政策委員になられた中山均さんと、旭電化社長、花王石鹸社長をやられた磯部愉一郎さんで、事務局は中村元督さんときまったようである。会則のない二十日会はこうして、人脈を基に自然発生的に、実績主義で試行錯誤の繰返しでできたが、原さんは余りにも忙しく社長職を50くらい持たれていたということで、会務は両副会長と中村さんが相談しながら取運んで誰からも文句はなかったようである。

しかし人には死というものがある。どちらが先だったかは定かでないが、中村、中山の両氏は鬼籍に入られた。中村氏あとは、幸いにして日本工業倶楽部事務局で好意をもって、事務の方の中から専任者をきめて引き受けて下さって今日にいたっている。わたくしが日本工業倶楽部75年記念号の会報に「工業倶楽部に感謝する」と題して雑文を寄せたのはそのためである。事務局はこのようにして立派に出来上がったが、副会長はわたくしが入会した頃は磯部さんお一人でやっておられ、何から何まですべてを取りしきっておられた。こうした状態が随分長く続いたようである。

そうしたときである。わたくしは昭和45年1月のある日、磯部さんから佐藤工業社長の佐藤欣治さんとともに呼び出された。佐藤さんは多忙せいか欠席された。指定の場所に行ってみたところ、工業倶楽部の吉原貞夫さんという二十日会の事務を専門にやってくれる人がおられ、3人で食事したのだが、そのとき磯部さんは「自分も数え年で90才になる。そして耳も大分不自由になったので、二十日会の副会長をやめたい」と原会長に申出たところ、原さんは後任には佐藤さんとあなたを指名されたという。そこでとにかくお引き受けし、佐藤さんと相談しながらやりますとお答えした。

それから数日たって佐藤さんに会ってこの話をしたところ、佐藤さんには原さんから直接電話があったそうだが、とにかく自分も会社が忙しいので、わたくし一人でやってくれ、責任はとるという。仕方なしにOKし、わたくしは預貯金の名義は佐藤さんにし、印も佐藤さんのものにして、わたくしがそれを押すということにした。磯部さんにもその報告をしたところ、「佐藤さんはお坊ちゃん育ちだから、あなた一人で万事いいように切盛りして下さい」とのご返事。わたくしはワンマン運営が続いたのはそのためだった。けれどわたくしは、年三、四回しか出席しない佐藤さん、また殆んどご欠席の原会長に、独断専行した結果だけは必ず報告申上げご諒承をとることにしていた。

こうしたことでわたくし一人では十分なことができないので、秋の旅行会はやめにしたし、磯部さんのとき設けていた選考委員は、皆さん亡くなられたので、わたくし一人で入会希望者の受付から毎月の講師の選定までやらざるを得なくなった。

そのうち原会長も昭和57年10月白寿のお祝いの直後亡くなられたので、次期会長問題が起きてきた。わたくしは従来の経緯に鑑み、先輩の佐藤さんに会長になってほしいと申入れたが、続いて副会長はわたくし一人ではとても無理だから、わたくしの推す方を副会長に指名してほしいと条件をつけ、平原証券の社長から社団法人日本証券経済倶楽部副理事長兼専務理事になられた平原聰宏さんを推薦し皆さんも同意したので、会計関係は平原さんに頼むこととし、預貯金の名義も平原さんとした。一方工業倶楽部の方でも人が変り、吉原さんのあとは叢隆治さんが担当となったが、間もなく今の大石健次郎さんに変り今日にいたっている。

そのうち今度は佐藤さんが平成3年8月82才で不帰の人となられた。その間わたくしがガン手術のため倒れた時期が平成元年と同6年にあり、平原さんを入れてよかったとよろこんだのだが、佐藤さんの病気が長引くと察したとき、佐藤さんのところで絶対に病名も明かしてくれないので、わたくしは平原さんの推す人をもう一人副会長に指名してほしいと、佐藤工業の秘書を通じ病床にある会長の諒解をとって、平原さんの推す關昭太郎さんに平成3年副会長を引受けてもらったが、それから間もなく佐藤さんは亡くなられた。わたくしは自分が病後でもあったので佐藤、佐々木時代を終りとし、新しい会長を選ぶよう平原さんに申出たところ、平原さんはわたくしに会長を引受けよといわれ、例会の席上出席者一同の賛同を得てしまった。三代目の会長はこうしてわたくしがその任を負うことになった。

二十日会は校友会の一部門ではない。校友では実業界の人の会に、理工学部の六花会があり、商学部にも稲竜会がある。平原さんは理工学部の出身なので六花会にも入っておられたし、稲竜会の創設には政経学部出身だがわたくしが手をかした関係もあり、また稲竜会の運営には平原さんにも援助をしてもらったりしていた関係から、平原さんから二十日会例会700回記念に六花会および稲竜会の会員で二十日会に入会を希望する人を入会させたらどうかとの提案があったので、その実現を計ることにし、戦時中何回かは休会したらしく平成4年7月の例会で700回目に当るため、その日にとうとう実現させた。そしてこれには日本工業倶楽部常任理事臺隆氏と原さんのご遺族として原家の女婿である日本化薬の坂野常和氏ご夫婦をお招きし、盛大にとり行われた。しかし、平原さんも平成7年8月22日逝去され、今はこの世におられない。

大要以上のようにして二十日会は今日を迎えているが、初代会長の原さんから平原さんまでの役員の方には、わたくしはそれぞれに本当にお世話になり、そして勉強させていただいた。また現在の会員の皆さんの社会的活躍のおかげで会長として大きな誇りを持たせていただいている。ついては会員の選考は十分にやるべきだと考える。一時入会をルーズにしたところ一部の校友会の人々を盛んに紹介される傾向にみられることがあったので、こうしたことは二十日会の伝統に反すると思い、今は昔のように入会者は厳に選考することにしている。また二十日会が規約もなしにきちんとした組織体として歩んで来られたのは、会員相互の友愛と、会運営の衝に当たる者の信頼に基づく人間関係だったと信じて人脈を尊重し、平原さんなき後の副会長の補充には、關さんの推す人をと考え關さんにご一任したところ、關さんは熟慮の末沼田安弘さんの名を挙げられた。

關さんは平原さんがかねてより何んとか母校の評議員にしたいと、わたくしにご相談された方であり、沼田さんは私が80歳を越え推薦評議員に再選されることがなくなったときの評議員改選期に当り、会員の谷正男さんから弁護士の沼田さんの推薦人になろうと話合って評議員選に出馬を願い、お二人ともめでたく揃って当選された、奥島総長就任の年の同期の桜である。その奥島内閣の財務担当理事には、証券界ご出身の關さんではどうかと、わたくしが反対する筈もない。当然故平原さんなき後の副会長の補充には、会長としてわたくしは沼田さんを指名したのであり、これが現スタッフ陣成立の実情である。

更に一言つけ加えたいことがある。実はわたくしが磯部さんから後事を託されたとき、早速磯部さんに講師として二十日会の歴史の講演をお願いし、後日のためテープをとったのだが、最近二十日会の由来を知りたいとの要望が多いので、そのテープを事務局に要求したところ、今工業倶楽部には保存されていないという。仕方なしに後日のため拙文をまとめた次第である。間違いがあったとする大変申訳なく在天の諸先輩に深くお詫びをし、お許しいただきたいと念じているところである。