早稲田二十日会

概 要

創  立:大正14年9月14日
構成会員:早稲田大学卒業の企業経営者・役員、そのOBほか(平成30年4月30日現在会員数:294名)
活動内容:毎月1回20日正午より日本工業倶楽部会館にて例会(会食、その後1時間の講演会)を開催。
ただし20日が土・日曜日及び祭日に該当する場合は適宜変更して開催。
なお、1月は新年会、8月は暑中休会。
その他会員有志による懇親ゴルフ会として年2回競技会を実施。
会  費:年会費 20,000円/例会会費 5,000円(新年会:10,000円)
  

二十日会の生立ちと伝統

二十日会 第3代会長 佐々木 省三

二十日会が大正14年9月14日創立されていることは記録により明らかだが、この会には会則というものがない。伝えきくところによると、母校早稲田大学は古くから「私学の雄」として認められてきたが、ライバル校慶応に比べ、卒業生の実業界における活躍では、明らかに負けていることは事実である。ところが大学で商科を設置し、優秀な卒業生を輩出したことでは決して他に引けをとってはいなかった。

そこで商科初期の卒業生であり、早くから実業界で大活躍されていた日本化薬の原安三郎氏と日本工業倶楽部常任理事の中村元督氏らが相寄り話し合った結果、早稲田の卒業生で実業界に籍をおく者たちに呼びかけ「二十日会」をつくり、毎月二十日に日本工業倶楽部で会合を開き、勉強会を開くとともに大いに親睦を旨とすることにしたようである。勿論冷房設備のない当時のことだから、八月は休会とし、年2回歌舞伎鑑賞会と一泊の温泉旅行を春秋に分けて行い、また正月は宴会とし、それに余興として一龍斎貞丈(現在は二代目)の講談をきき、その年の運試しに福引をして親交を深めて互いに楽しみ合ったそうである。何せ大正14年といえば一流の集会のできるところとしては、帝国ホテル、上野の精養軒、それに日本工業倶楽部ぐらいしかない時代だから、こうした催しは確かに切磋琢磨するには最高の場所だったと思う。戦後経済同友会ができ、若き経営者たちが、個人単位で日本工業倶楽部を根城としたのも同じ理由だったと思う。

会員を集めるにはお互いに氏名推薦制度をとったようである。その事務局というか裏方の世話は全部中村氏がやってくれたという。将来性のある後輩に目星をつけて説得し勧誘はするが、相当の有名人でも選考は厳重で、原会長の指名した数名の推薦者が合議制で決めていたようである。現在の名簿に載っていない過去の人を、順不同で数名あげれば、河野謙三氏も政界に入る前に会員となっているし、大東京火災を創立された反町茂作氏、西武鉄道の社長で堤康次郎氏の女婿の小島正治郎氏とか、ソニーの井深大氏も若い頃に入会されたようだし、フジ・サンケイグループの創設者鹿内信隆氏、月島機械社長の黒板駿策氏等財界の大物はいくらでもいらっしゃる。わたくしも二三の先輩達から声をかけられ、昭和42年2月20日、55才で大東京火災専務のとき入会を許されたが、わたくしが早稲田大学の理事に就任したのは、翌43年6月であった。だから入会しないかと声をかけられたときは、本当に光栄に感じたものである。

さて「原会長」と書いたが、いつの頃からか会長は原さん、そして副会長は駿河銀行の頭取から日銀の政策委員になられた中山均さんと、旭電化社長、花王石鹸社長をやられた磯部愉一郎さんで、事務局は中村元督さんときまったようである。会則のない二十日会はこうして、人脈を基に自然発生的に、実績主義で試行錯誤の繰返しでできたが、原さんは余りにも忙しく社長職を50くらい持たれていたということで、会務は両副会長と中村さんが相談しながら取運んで誰からも文句はなかったようである。

しかし人には死というものがある。どちらが先だったかは定かでないが、中村、中山の両氏は鬼籍に入られた。中村氏あとは、幸いにして日本工業倶楽部事務局で好意をもって、事務の方の中から専任者をきめて引き受けて下さって今日にいたっている。わたくしが日本工業倶楽部75年記念号の会報に「工業倶楽部に感謝する」と題して雑文を寄せたのはそのためである。事務局はこのようにして立派に出来上がったが、副会長はわたくしが入会した頃は磯部さんお一人でやっておられ、何から何まですべてを取りしきっておられた。こうした状態が随分長く続いたようである。

そうしたときである。わたくしは昭和45年1月のある日、磯部さんから佐藤工業社長の佐藤欣治さんとともに呼び出された。佐藤さんは多忙せいか欠席された。指定の場所に行ってみたところ、工業倶楽部の吉原貞夫さんという二十日会の事務を専門にやってくれる人がおられ、3人で食事したのだが、そのとき磯部さんは「自分も数え年で90才になる。そして耳も大分不自由になったので、二十日会の副会長をやめたい」と原会長に申出たところ、原さんは後任には佐藤さんとあなたを指名されたという。そこでとにかくお引き受けし、佐藤さんと相談しながらやりますとお答えした。

それから数日たって佐藤さんに会ってこの話をしたところ、佐藤さんには原さんから直接電話があったそうだが、とにかく自分も会社が忙しいので、わたくし一人でやってくれ、責任はとるという。仕方なしにOKし、わたくしは預貯金の名義は佐藤さんにし、印も佐藤さんのものにして、わたくしがそれを押すということにした。磯部さんにもその報告をしたところ、「佐藤さんはお坊ちゃん育ちだから、あなた一人で万事いいように切盛りして下さい」とのご返事。わたくしはワンマン運営が続いたのはそのためだった。けれどわたくしは、年三、四回しか出席しない佐藤さん、また殆んどご欠席の原会長に、独断専行した結果だけは必ず報告申上げご諒承をとることにしていた。

こうしたことでわたくし一人では十分なことができないので、秋の旅行会はやめにしたし、磯部さんのとき設けていた選考委員は、皆さん亡くなられたので、わたくし一人で入会希望者の受付から毎月の講師の選定までやらざるを得なくなった。

そのうち原会長も昭和57年10月白寿のお祝いの直後亡くなられたので、次期会長問題が起きてきた。わたくしは従来の経緯に鑑み、先輩の佐藤さんに会長になってほしいと申入れたが、続いて副会長はわたくし一人ではとても無理だから、わたくしの推す方を副会長に指名してほしいと条件をつけ、平原証券の社長から社団法人日本証券経済倶楽部副理事長兼専務理事になられた平原聰宏さんを推薦し皆さんも同意したので、会計関係は平原さんに頼むこととし、預貯金の名義も平原さんとした。一方工業倶楽部の方でも人が変り、吉原さんのあとは叢隆治さんが担当となったが、間もなく今の大石健次郎さんに変り今日にいたっている。

そのうち今度は佐藤さんが平成3年8月82才で不帰の人となられた。その間わたくしがガン手術のため倒れた時期が平成元年と同6年にあり、平原さんを入れてよかったとよろこんだのだが、佐藤さんの病気が長引くと察したとき、佐藤さんのところで絶対に病名も明かしてくれないので、わたくしは平原さんの推す人をもう一人副会長に指名してほしいと、佐藤工業の秘書を通じ病床にある会長の諒解をとって、平原さんの推す關昭太郎さんに平成3年副会長を引受けてもらったが、それから間もなく佐藤さんは亡くなられた。わたくしは自分が病後でもあったので佐藤、佐々木時代を終りとし、新しい会長を選ぶよう平原さんに申出たところ、平原さんはわたくしに会長を引受けよといわれ、例会の席上出席者一同の賛同を得てしまった。三代目の会長はこうしてわたくしがその任を負うことになった。

二十日会は校友会の一部門ではない。校友では実業界の人の会に、理工学部の六花会があり、商学部にも稲竜会がある。平原さんは理工学部の出身なので六花会にも入っておられたし、稲竜会の創設には政経学部出身だがわたくしが手をかした関係もあり、また稲竜会の運営には平原さんにも援助をしてもらったりしていた関係から、平原さんから二十日会例会700回記念に六花会および稲竜会の会員で二十日会に入会を希望する人を入会させたらどうかとの提案があったので、その実現を計ることにし、戦時中何回かは休会したらしく平成4年7月の例会で700回目に当るため、その日にとうとう実現させた。そしてこれには日本工業倶楽部常任理事臺隆氏と原さんのご遺族として原家の女婿である日本化薬の坂野常和氏ご夫婦をお招きし、盛大にとり行われた。しかし、平原さんも平成7年8月22日逝去され、今はこの世におられない。

大要以上のようにして二十日会は今日を迎えているが、初代会長の原さんから平原さんまでの役員の方には、わたくしはそれぞれに本当にお世話になり、そして勉強させていただいた。また現在の会員の皆さんの社会的活躍のおかげで会長として大きな誇りを持たせていただいている。ついては会員の選考は十分にやるべきだと考える。一時入会をルーズにしたところ一部の校友会の人々を盛んに紹介される傾向にみられることがあったので、こうしたことは二十日会の伝統に反すると思い、今は昔のように入会者は厳に選考することにしている。また二十日会が規約もなしにきちんとした組織体として歩んで来られたのは、会員相互の友愛と、会運営の衝に当たる者の信頼に基づく人間関係だったと信じて人脈を尊重し、平原さんなき後の副会長の補充には、關さんの推す人をと考え關さんにご一任したところ、關さんは熟慮の末沼田安弘さんの名を挙げられた。

關さんは平原さんがかねてより何んとか母校の評議員にしたいと、わたくしにご相談された方であり、沼田さんは私が80歳を越え推薦評議員に再選されることがなくなったときの評議員改選期に当り、会員の谷正男さんから弁護士の沼田さんの推薦人になろうと話合って評議員選に出馬を願い、お二人ともめでたく揃って当選された、奥島総長就任の年の同期の桜である。その奥島内閣の財務担当理事には、証券界ご出身の關さんではどうかと、わたくしが反対する筈もない。当然故平原さんなき後の副会長の補充には、会長としてわたくしは沼田さんを指名したのであり、これが現スタッフ陣成立の実情である。

更に一言つけ加えたいことがある。実はわたくしが磯部さんから後事を託されたとき、早速磯部さんに講師として二十日会の歴史の講演をお願いし、後日のためテープをとったのだが、最近二十日会の由来を知りたいとの要望が多いので、そのテープを事務局に要求したところ、今工業倶楽部には保存されていないという。仕方なしに後日のため拙文をまとめた次第である。間違いがあったとする大変申訳なく在天の諸先輩に深くお詫びをし、お許しいただきたいと念じているところである。